Ore Note。

気なること、人生設計、メモ書き、日々様々なことを書き綴ってきます。要は個人的なノートです。出来れば日刊で。

吉田松陰という男。

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読者に皆様は、吉田松陰という男をご存知だろうか。私は、今NHK大河ドラマで放映されている「花燃ゆ」という作品で知りました。

 

私は歴史上の人物で好きな人物といえば、やはり織田信長宮本武蔵など、男気溢れる偉人が思い浮かぶ。そして、吉田松陰もまた、偉大なる人物だと言えるだろう。

 

私は歴史についてあまり多くを知りません。しかし、大河ドラマ「花燃ゆ」、本やネットを通じて、この偉大なる人物「吉田松陰」について強烈に興味を持ってしまったので、このブログ内でもメモしていきたいと思います。

 

吉田松陰とはどんな人物なのか

まずは吉田松陰という自分物がどのような人物かを知っていきましょう。

 

▼松陰その1:脱藩

吉田松陰1830年長州藩士の次男として生まれました。幼少から叔父が開いた松下村塾で指導を受け、11歳の時、藩主への御前講義によりその才能が認められました。

 

その後、西洋兵学を学ぶために九州に遊学。江戸に出て佐久間象山に師事。吉田松陰は、友人と東北旅行を計画しますが、出発日の約束を守るため、長州藩の通行手形の発行を待たず脱藩するようないかにも心で動く熱い人物だったのです。

 

▼松陰その2:アメリカ艦隊に乗り込み

1852年、江戸に帰着後、罪に問われて士籍を剥奪され、世禄没収の処分を受けます。そして、1854年、吉田松陰は「友」呼ぶ愛弟子「金子重之輔(重輔・かねこしげのすけ)」と共に、再来したペリー艦隊の黒船に密航を企てます。特に計画もないまま盗んだ小舟を使って実行に移しますが、当然追い返されました。その後国禁を破った松陰は自首し、長州へ檻送され幽囚されるのです。

 

▼松陰その3:松下村塾

1855年に出獄を許され幽閉処分となった後、1857年に叔父の松下村塾の名を引き継ぎ、松下村塾を開塾。そこで久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文山縣有朋などを教育するようになります。(錚々たる顔ぶれですね。)

 

▼松陰その4:弟子との絶交

1858年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒。討幕を表明して老中の暗殺を計画します。弟子らは反対して同調しなかったため計画は頓挫します。しかし、この時松陰の目には弟子たちの考えにぬるさを感じ、絶交を決意したそうです。

 

さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕を持ちかけます。しかし、結果、松陰は捕らえられ幽囚となります。何度も投獄されてきた松陰は、最終的に前科5犯だそうです。

 

▼松陰その5:自ら「死罪」を主張

その後、井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られます。松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張しました。井伊直弼の逆鱗に触れ、1859年に斬刑に処されました。享年29歳。松陰の死は正に、男の死に様。

 

「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、“御苦労様”と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」

 

とあります。死に逝く者としての振る舞いではなく、それは堂々とした最期だったそうです。

 

◆自らを狂愚と名乗った松陰

「西洋が攻めて来て国に災いをなす!しかし、国の者は誰も動かん!だから、自分がやるしかない!自分が日本を変えてやる!!」

という熱い志を胸に動き続けますが、国の者は頭がおかしいと批判ばかりだったそうです。松陰はいつも世間の常識に疑問を持ち、自らの行動で示してきました。

 

「狂」には元々、狂っている(おかしい、クレイジー)のような意味ではなく、溢れんばかりの情熱を指す言葉だったそうです。

 

◆私が惹かれた松陰の魅力

私が吉田松陰という人物に惹かれた最たる理由があります。それは、吉田松陰の残した名言です。吉田松陰は自分の考えや志を周りの人達に惜しみなく伝えます。そして、後世へと志が受け継がれていきました。

 

その松陰の残した名言に感銘を受け、私は松陰の魅力にハマってしまいます。その中でも私が実に感銘を受けた言葉としては、

 

夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。

 

という言葉です。これは現在の世にも言えることだと思います。そして、この言葉が受け継がれているのは、「死」をも覚悟して常に動き続けた松陰だからこそ今の世まで受け継がれているのではないでしょうか。

 

松陰の名言は数多くありますし、まだまだ魅力のある言葉がいっぱいありますので、この記事内で少しではありますがご紹介したいと思います。

 

吉田松陰名言集

 

▼名言その1

一つ善いことをすれば、その善は自分のものとなる。

一つ有益なものを得れば、それは自分のものとなる。

一日努力すれば、一日の効果が得られる。

一年努力すれば、一年の効果がある。

 

当たり前のようで、深い言葉だと思います。私も日々精進致します。

 

▼名言その2

決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。

大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。

 

本当に勇気のある言葉だと思います。そして、この志があれば何でも出来るという強い気持ちが湧いてきます。

 

▼名言その3

学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ。

 

松陰は強い志を持ち、日本の国を変える為にたくさんの本を読みました。そして、本に対する気持ちにも深い名言があります。「本は人である。本を読むということは、たくさんの歴史に触れ、たくさんの人の知識を得ることに値する。本は海をも渡れる代物である」私も本を読むのが好きです。この松陰の言葉はかなり胸にグッとくるものがありました。昔に生きた人の中にはほんとに夢が詰まっていると感動しております。

 

▼名言その4

みだりに人の師となるべからず。

みだりに人を師とすべからず。

 

上記にも述べましたが、松陰には金子重輔という愛弟子がおりました。ペリー来航の際、重輔と共に大義を果たそうとしますが失敗に終わります。そして、投獄中に重輔は病によって亡くなってしまいます。松陰は重輔の死を誰よりも重く受け止め、共に志した大義を果たそうと必死になるのです。

 

▼名言その5

だいたいにおいて世間の毀誉(悪口と称賛)というものは、あてにならぬものである。

 

こちらも今の世にぴったりの名言ではないかと思います。自分はどうなりたいのか、自分の人生をどう生きるのか。自らを狂愚と名乗った松陰の目には、世の中が謎だらけだったことがよくわかります。

 

吉田松陰という人物

最後になりますが、吉田松陰という人物には魅力があり過ぎて、当然のことながら一つの記事でお伝えすることは出来ません。これは他の偉人にも言えることですが、まだまだ松陰の魅力のほんの一部です。

 

この記事を読んでくださっている方がいるのであれば、是非「吉田松陰」について調べて頂きたい。松陰の人生を知ることで、自分の未来について真剣に創造するきっかけになるのではないでしょうか。

 

私は毎週日曜日の「花燃ゆ」を楽しみに、まだまだ吉田松陰の魅力についてハマっていきたいと考えております。そして、当ブログでも吉田松陰の記事を書き綴っていきたいと思っております。

 

長々となりましたが、ご清聴有難うございました。